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たーぃもない話。

2006年06月16日 14:34

たとえば? 今日、雨すごかったね。とか?

『そうそう。そういうね、サザエさんの食卓的な会話、お前の口から聞いたことがねぇもん。それ出来ないうちは、お前変わんねぇよ。』

んーあたし普通の会話もしてるじゃん。これ美味しいーとか。
ちゃんと目も見て話せるようになったよ。

『してても、お前から陰々鬱々オーラが出てんだよ。
 あとは、「くれくれオーラ」。』



うん。ゴメン、出てんじゃなくて、
出してんだ。アンタの前だから。



とは言わなかったけど。
でも多分、これでも人と場を選べるようには少しなった。
彼は滅多に会わないけど、話せば叱ってくれる友達。
今は彼の言ってくれる言葉も、理解できるようになった。
それだけでも、ほんのちょっとは進歩って呼んで。
_________________________



たーぃもない話をすることが、
中身のない意味のない話にしか感じられなかった時期がある。
大勢でわいわいと"クダラナイ話"で盛り上がっている場を眺め
一人まるで高尚なことを考えているつもりですらいた。

その頃は、私はコミュニケーションボキャブラリーが
今よりさらに貧困で、
そう思うしか身を守る術が思いつかなかった。
あとは、単純に寂しかったんだと思う。


例えば飲み会の盛り上げ役に徹するタイプの人間を
「何アピッてるの?」と、まるで理解が出来なかったのだが、
しかし、
そこで冷めて斜めから眺めてるほど究極の自己主張はない。


大人数の中のどこにでもあるような会話。
人からみてクダラナイと思うような話題。
その中身は、
自分をアピールして自分を見てもらう目的の言葉ではなくて、
自分のことは置いといて、その場の空気を考え、
相手の気持ちを汲み取り、相手とのバランスをとり、
相手を喜ばせよう、相手と同じ時間を共有しよう、
そういう無意識の「思いやり合い」の言葉だったりする。

1×1の関係では、それぞれの言語や二人だけの秘密言語でそれぞれの話を深くすることが、相手との関係を深めることになったりするが、「大人数での輪を構成する一つとしての自分」では、共通言語を使わなければコミュニケーションは成り立たなかったりもする。それも、どのくらいの仲なのかとか、場の空気とかによって、また色々あるけど。






クラシックを辞めてから。
人と一緒に音楽をやるようになって。
友達が増えて。新しいコミュニティーが増えて。
たーぃもない話ができる友達や大人にたくさん出逢って、
たくさんのことを教わって、
自分のお子茶魔度合いを知った。恥ずかしくなった。
「子供らしさ」と「幼さ」は違う。
顔も童顔だが、中身も恐ろしく幼稚な自分を知った。
仮病を使って親にアピールする子供と同レベルだ。


「その部分はみんなの方が先に一つ大人だったってだけだよ」

いつも場を楽しませることばかり考えてるような、
明るさの塊のような友達が、あるときそう言ってくれた。
多分本質は、どちらかというとネクラタイプな人だ。



お酒も私に新しいコミュニケーション言語をくれた。
音楽室にこもりきりだった10数年間で失ったものと、
みんなから遅れた分を慌てて取り戻すかのように、
人と会った。遊んだ。のんだのんだのんだのんだ。
すると今まで分からなかった相手の話も分かるようになった。
人のことを知ることが面白いと思うようになった。
馬鹿話のマシンガントークも出来るようになった。
人見知りと受動攻撃性が徐々に和らいで、
全体を構成する一部分である自分、にこそ意味(ID)を見出せる、
その喜びを、20過ぎて初めて知った。





こう、一日の中で人と会話をする時間より
ピアノと会話をする方が圧倒的に長い自分は
すぐに問題をピアノに置き換えて考える癖があるのだが。


自分一人との戦い。
1×1の、自分×ピアノとの向き合い。
1×大人数というステージでの自分。
そこで
自分をどう伝えるか。
自分をどう見てもらうか。

そこを追求し、そこのボキャブラリーを増やす訓練ばかり、
20年間し過ぎてきた。


けど。

名役者は、
一瞬にして場を自分の空気に変えることと同じくらい、
一瞬にして自分を場の色に変えることが
出来る、名脇役でもある。
名役者は、主役を引き立たせることが出来る。





最近、数年ぶりにブルーノートへ行った。
ジャズのセッションとか見てる時もいつも思うけど、
彼等の音の会話って、たーぃもない話なんだと思う。
でも、相手の話へのチャチャの入れ方とか、
どうしてそんなに絶妙なんだろうって。
みんな、もの凄く相手の話を聴いてる。
尊敬しあっている。
美味しいところを奪い合い、譲り合う。
飛び交う音がにやけてる。

小難しい言葉でうんちく語るような音出さなくても、
クダラナイ一言でその人が見えてくる、ような音を出す。

たまんない。
ほんとにこーゆー音に出会うと、こっちもにやけてしまう。
んでもって、羨ましくて悔しい。




たーぃもない会話みたいな音。
ほんとは、やっぱりあっかも誰かと一緒に音楽がしたい。
クダラナイ会話から答えのでない議論まで、
音で誰かと話したい。

最近は一人で弾く事ばっかだけど、
ピアノと作曲者と自分と曲と、
音符の中に、たくさんの人を作りだすことは出来る。
それが出来ないのは、クラシックが悪いわけでも、
音楽室にこもっていた過去のせいでもないはずだから。


そして、演奏会とかでも、自分対お客さん、ではなく、
あくまでその音楽を共有する一人に過ぎないという立場
で音を発する、ことは、出来る。
その時、その音は「私のもの」ではない。「みんなのもの」。
そこにこそ自分のアイデンティティーを見出せる。
そーゆー音がいい。



たーぃもない会話みたいな音。




時に、皆で一つのことを熱く語り分かちあうような音。









よし。音楽室に行く前に、ビールだ。


今の忙しい時期もうほんのちょっと踏ん張るので
一段落したら
みんな一緒にまた音とお酒で遊んでね。
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